出発したその日、九州日田市から横浜の息子の自宅まで 貴方は覚えているだろうか?映画「幸せの黄色いハンカチ」
一気に走る(初日の走行 1,150km)。 高倉健、倍賞千恵子、それに武田鉄也の愛と友情の物語。
翌日は青森の下北半島大間まで走りる。写真は函館行き ここは今も夕張に残るロケ現場の思い出広場。
フェリーに乗る直前。自宅を出て48時間後は函館だった。 島勇作と光枝が新婚生活を送った炭坑の長屋が今も残る。
 一日で1,150キロを走ったのはこの時が初めてだった。あのヨーロッパでもこのR50で走った884キロが最高だった。
 やっぱりR50の耐久性はすごい。そして翌日もマグロで有名な大間までの887キロを走り抜いた。二日で2,000キロ超だ。
日高山脈を越え十勝平野へ。 北海道東部の根室海峡へ出ると、海の向こうに北方四島の
ここは十勝平野を望む日勝峠。ここを下って帯広へ向かう。 国後島が見えた。よく目を見開くと対岸の建物が見えるんじ
道路は34年前と同じく真っ直ぐに地平線の彼方へ消える。 ゃないかと思うほどに、このロシア管理の国後島は近い。
しかし確かに道路は良くなっていた。34年前のこの峠の道 上の写真は世界遺産の知床半島でキャンプを張った時のも
路は砂利道だった。 の。私のテントの横まで野生の鹿が近づいてきている。
北海道に入って3日目、日本最北端、宗谷岬に着いた。 北海道を一周し、更に大雪山を一周して、写真の旭川に着
知床からオホーツク海沿岸を北上。網走から紋別を通って いた。実は一足先にクラブの人達が北海道に着いていた。
この宗谷岬まで、34年前は砂利道が多くパンクもした。 私は彼らを向かいに富良野の近くまで行き、合流した。
今は何処もハイウェーのように道が良く、車も少ない。 そして彼らとこの旭川の公園キャンプ場で二泊のキャンプを
この最北端シンボルは同じだが、周囲は観光地のように 張った。
公園化され、きれいに生まれ変わっている。 皆私より年上で、バイクもR50サイドカー、R69Sサイドカー、
昔の最北端は砂浜の中にこのシンボルが有っただけだ。 R69S、R100サイドカーの全員で5名になった。
そして道路の上には最北端の国鉄の小さな駅があったが、 そして私は単身札幌から小樽へ走り、ここから舞鶴までの
今はそれもなくなっていた。 フェリーで帰路についた。
今回使用したバイクも、ユーラシア大陸を横断したBMW R50だった。ヨーロッパから帰国したR50はシリンダーから上を分解
し、シリンダーとバルブ周辺の摩耗量を測定したが、特に修理を必要とするダメージは全くなく、そのまま組み上げていた。
丁度5年後の今年、クラブ員4名が北海道へツーリングに出かけた。急遽サポーターとして私も追っかけ出発した。
皆は舞鶴まで実走し、そこからフェリーで日本海を小樽まで行く。私は単独高速道を飛ばし、青森の最北端、大間まで実
走した。初日は九州から横浜まで一気に1,150kmを走り、翌日は下北半島の大間までの887kmを走った。
この距離はこのR50で走ったこれまで最高のデンマークでの884kmを大きく上回った。平均巡航速度は110km/hだった。
本当にR50のエンジンは安定していてよく走る。昔このようなことを耳にした「速く走るならイタリア車やイギリス車に乗れば
いい、しかし多くの部品を道路に散乱しながら走るだろう。確実に安全に目的地に着きたいならBMWを選ぶべきだ」と。
今は時代も変わって優れたバイクが沢山走っている。しかし、バイクがオートバイらしいそれぞれの個性有る魅力を持って
いるのは一昔前のバイクになった。 R50が魅力ある真のBMWらしさを持っていると思うのはミュンヘナーを知っている多く
のフラットツインオーナーも同じだ。 乗りやすさや利益を追求した昨今のモデルはエンブレムこそ違えど、それぞれが持っ
ていた個性という面白さに欠けてきた。 人も右にならう人ばかりでは面白くない。