悪路
ハバロフスクを出発して間もなく大きな橋を渡る。
アムール川だ。この付近の道路は驚くほど良い。
しかし喜ぶのは早かった。ビロビジャンという町を
出てからは、砂利道と泥道が延々と続く。わだちを
うまく通らないと、ハンドルを取られてたちまち転ん
でしまいそうだ。車はめっきり減り、時々地平線の
向こうから砂埃をあげて車が近づくのが見える。
バイクも顔も真っ白になった。
左の写真は道路工事の現場で、全体を掘り繰り
返している。車両の通る場所など確保していない。
適当に自己責任で通ってくれ、と言ったように誰も
誘導する人は居ない。
こんなモトクロス場のような道が数キロも続いた。
延々と続く砂利道
夜は10時過ぎまで明るいので、8時まで走った。
延々と続く砂利道と悪路を今日一日で600km走
った。顔は埃で真っ黒になっていた。
私は壊れた工場の跡地で、キャンプを張った。
煉瓦造りの広い工場跡で、何の工場だったのか
すごく気味の悪い場所だったが、遠くの木の上で
鳴くカッコーの声に異国での孤独感を感じながら
も、疲れていたのか直ぐに寝入った。
モンゴルへ向かうイギリス人のバイカーと
トムとオーリと名乗った彼らは幼少の頃からの親友
らしく、2台のホンダのオフロードバイクでニュージ
ーランドを走った後の帰りだと言う。方向が途中ま
で一緒だったので、しばらく一緒に走った。
その後一人がパンクをしたので修理を手伝った。
このトムとオーリの二人とこの日別れた後、その後
偶然にも二度再会する事になる。
やっと乗れたシベリア鉄道  6月9日
この”シマノフスカヤ”から先はまともな道がな
いと聞いている。ここからバイクと共にシベリア
鉄道に乗らなければらない。しかしこれが簡単
にはいかなかった。駅の貨物部に行っても言葉
が通じない。
後で解ったことだが、貨物の権利はマフィアが
握っているらしく、日本からの中古自動車は
広い駅の構内で100台以上が延々と並んで、
数日間待ち続けている。
言葉は分からないし、私は途方に暮れながら
まる一日が過ぎてしまった。
その日の夕方、前日のトムとオリに再開した。
彼らは駅で乗車券を買ったと言う。しかしその
列車には乗れなかった。何故なら貨物列車が
客車とは別便だったから乗るわけにはいかな
かったのだ。言葉の問題で説明が上手く伝わら
なかったのだろう、彼らは悔やんでいた。
私達はその夜、町外れで一緒にキャンプした。
翌朝、彼らは一つ先の駅まで行ってみると走り
去ったが、列車に乗ることができるのだろうか。
私は翌日、一人で再度この駅でトライし続けた。
すると一人の男が近づいてきて、貨車一両を予
約しているので、車の間に積んでやるという。
私はその男を信じて$250を払い、夕刻バイク
と共に貨車に乗った。
それから2日間(1,000KM)、私は乗り合わせた
7人のロシア人から食事を頂き、大変お世話に
なった。こんなところでも、人の優しさにふれた。
70以上の車両がつながるシベリア鉄道
 これは私が乗った貨車の自動車の屋根から
写した写真だ。日本ではこんな事は絶対出来
ないが、ロシアでは保線夫が手を振ってくれる。
70以上の車両がつながると、日本では隣の駅
まで届きそうなくらい長くなる。
私は貨車に積まれた普通トラックの、更にその
荷台に積まれた軽トラックの運転台をねぐらに
与えられた。流れる田舎の風景を楽しんでいる
と、窓ガラスをノックされた。振り向くと何とイギ
リス人のトムとオーリだった。彼らは次の駅で
この貨物列車に乗れたという。嬉しい三度目
の再会となった。
私の乗った貨物列車は上の写真のように台車
だけなので、二日間野ざらし吹きさらしで、小便
はそのまま車外へ放出した。しかし大便はそう
はいかない。列車が止まった時、いつ発車する
か分からないわずかな時間を狙って、素早く貨
車の下に潜って用を足すほかなかった。
列車は駅以外でも何度と無く止まり、客車が優
先する。移動する時は常に何かにつかまってい
ないと、ブレーキや発進の衝撃で振り落とされ
そうになる。危険きわまりない。
こんな状況を今の日本では絶対経験出来ない。
生きるためのサバイバルだ。